昭和五十七年九月二日 朝の御理解
御理解第七十八節
神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続い たら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)事があり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。
教祖の神様に、ある時神様からお伝えがあった。今日は金を拾わすから、笠岡の方へ行 けというお知らせであった。もうその頃は門外不出、ただお取次に専念してられた頃でございます。神様のお伝えだから、勿論金を拾わすと仰せられるのですから、ま、道をこうやってどこかに落ちとりゃせんじゃろうかと思うて、注意しておいでられたに違いないです。ところが笠岡(玉島)までお出でになると、お昼になってからそこでお伺いなさると、ここで弁当を使えとおしゃる。そこで弁当を頂かれて、それからこれからまた引き返せと、帰って見えて御神前に只今帰りましたといって御礼申し上げると、神様から、今日はいかほどの金を拾うたかとお知らせがあった。お金は拾いませんでしたけれども、お金より大切な今日は命を拾わせて頂きました。今日は、座ってばかりおりますので血の巡りも悪くなり、今日は久し振りに外へ出らしてもろうて、またとない命を頂いたという意味の御礼を申し上げられたということでございます。
神様が、もうお前ばかりは試しようがないとおしゃった。私は金光教の信心の素晴らし いということは、もう昨日から月次祭にも、も、申さして、もう、本当に、も、人の世に初めて人間が人間らしう助かっていけれる道。信心とは、難しいもの険しいものというイメージから、人間が人間らしうね、の、営みの中からしかも天地につながっていけれるというのですから、まさしく前人未到の道であります。そういう道をお開きくださった。そういう道をたどらせて頂くという事に、ひとつ、なら、私共はとりわけ有難いものを感じると同時に、そのいよいよ神様のおかげをね、神様のおかげを知らぬから互い違いになると仰せられますね。
神様、今日あなたが金を拾わすとおしゃるから一日がかりで今日はまいりましたけれど も、お金は拾いませんでしたよというふうな頂き方ではなくて、拾いましたという頂き方、いや、お金以上のものを拾いましたと御礼をいう心。そういう心の状態になりませんと、ま、昨日から頂きますように、いかに、前人未到という教祖様のお歩きになった道であり、またその道を歩きになる心の状態というものが有難い勿体ないでなからなければ、やっぱりその道を進めたり辿ったりする事は出来ないと思う。
だから思いますのに、もうどんな場合、どんな事があっても、例えば、なら、ある人が こらあもう困った事になりましたと例えばいう人があっても、いやあおかげですよと受けとめれる信心、も、どんな場合であっても、それは、ならどげなおかげですか言われても、なら、教祖様のように今日はお金以上の命を頂いた、というようなふうには出らないかもわからないかも知れん。けれども、ま、漠然とはあるけれどもね、神様のお働きの中に難儀とか困ったことがないといったような、一つの信心の確立が出来る為にもですね、困った、さあどうしようかとと、いやあおかげですよと、もうおかげですよと受け止めていく時にですね、おかげががおかげを呼んでくるのですからね。
次にあります、神の大恩を知ればとあるですね。おかげおかげで頂いていき、おかげが おかげを呼ぶようなおかげを頂いた時、初めて神の大恩がわかるのじゃないでしょうか。だから、一つそこんところのおかげを頂く手立てをです、ま、様々なご理解を頂いていろんな、ま、理論的にも一切神愛論というような事が言われて、一切が神愛だというその内容をいつも日頃こうやって稽古をさして頂いておりますから、どんな場合であっても、はあ、おかげですよ、おかげ頂きましたと御礼の言える心をいよいよわかっても分からなくてもね、この稽古に取り組む事だと思うね。
そして、そこに互い違いになると仰せられる、互い違いな事になっていく時に初めてま あだ自分がおかげと言っておるそのおかげが、ま、なら、口ばかりで言っておるといったようなふうに悟らしてもろうて、心からおかげといえれる信心をいよいよ身に付けていきたい。いやあおかげですよ、と心から言えれるおかげ、ね。
昨日は、梅山先生の弟が姫路の方に居りますが、人の車に追突したんですね。けどもお かげでま怪我もなかったけれども、まあ自分の車が少しはそでた。また相手の車もそうであった、といってお父さんがお届けにまいりました。おかげ頂いたねえ、そりゃ勿論、まあだ、そういう、なら追突しながら怪我一つ相手もしなかった。も、おかげですね。信心しよる、交通安全の御神米頂いとるのにどうしてこういう事が起こったじゃろうかではなくて、はあおかげ頂いたと。
昨日は、「むつや」の信司郎さんの妹の西見さん、むつやの上二階の方で「ひまわり」 というベビー洋品店を開いておる。久し振りにお参りしてまいりまして、「広大なおかげを頂きました」と文香さんといいます。それが、も急に、その子供が自転車でパアーッと飛び出して来たからそれを跳ねた。ところがおかげで、その自転車が少しそでたけれども怪我はなかった。それで、も、すぐそのまま家に電話をかけて主人に来てもろうて、主人と二人で子供の中学生だったそうですが、まお詫びにいったら、いいえ、もう家の子供がもいつも言います、ち、いつも自転車に乗ってぱかっと飛び出すとどげな事が起こるかわからんて、おまえが注意をせんからと言うて、かえって子供をたしなめてかえってご迷惑をかけましたというて言われ、ま、おかげを頂いたとね。
例えばそういう、なら一つの事故ですね、時に、もそういうはっきりしておりますから はあ、おかげとこう思われるわけです。おかげ頂いた、日頃しげしげと、も、参っては来ない者がやっぱおかげを実感したから、ま、おかげで怪我もなからない過ちもなくておかげ頂いた。そういう実感ですべての事がね、あの、おかげとこう頂かれる。なあにもない平穏無事の時なんかもっとおかげであるね。だから、そういう平穏無事の時のもっとおかげであるおかげを実感できるようになったらです、互い違いになるような事はなくなると思うですね。
病気をする、病気が治った、はあおかげを頂いたと思うそのおかげの実感よりも、もっ と日々健康である、達者であるという事に対して、ま、もっともっとおかげを実感できる信心ね。そこからそういう私はおかげがね、互い違いになるような事のない働きが生れてくる。本当に勿体ないおかげをおかげで頂いておかげがおかげを呼んで、そういうおかげが重なっていく時に、初めていわゆる神の大恩というのが実感として分かるのじゃないでしょうか。
神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、というふうに教えられてありま す。そういうおかげを頂きたいのです、お互いが無事健康で子孫も続きというようなおかげを頂きたいのです。為には、まずいわゆるおかげをおかげと知れ、病気が治ったのが有難いのではない、いつも壮健なのが有難いのぞというおかげ、ね。
はあおかげで追突したけれども、人を跳ねたけれどもおかげでね、怪我もなかったとの おかげを頂いたと実感しなければおられない。日頃、信心に無信心になっておっても、そういう時はあおかげ頂いたとこう思うその実感よりも、日頃無事であるという事はもっともっと有難いとわかるおかげです。そういうおかげを、私共がおかげと感じる時におかげはおかげを呼んでいく、互い違いではないそれこそ素晴らしいタイミングが生れてくる。そういうおかげを頂き続けて、初めて神の大恩が実感としてわかるのじゃないでしょうか、ね。
神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来とあるのですから、どうでもその 手前であるところの【 】信心をいよいよ身に着けていきたい。 どうぞ